漱石の「夢十夜」や反原発だった黒澤明監督の「夢」や忌野清志郎の「イマジン」のような夢ではなかった。
テレビでやっていた八墓村や牡丹灯籠の影響かなあ。
見てはないのですよ。愉快な番組なら録画を何回も視ます。
ましてや筋の知れたおどろおどろしい話はまず視ません。
そんな時間はないのです。録画してCMを飛ばして視ると、時間を節約できるのだな。
しっかり見たのは、戦争の研修で見た「火垂るの墓」。
本当の所は、昨日の同僚の知人のお子さんの話が原因だ。
何かに打ち込むことなく、夜中までゲーム三昧の日々。
親を乗り越え、不登校は続く。やりたいことがある時だけ登校する。
親や周りの人が一生懸命になって何かに打ち込んでいる姿をすごいな、立派だなと感じることがなかったのだろうか。
様々なことで、友達と同じようにできず、自分の劣っている事に気が付き始めたのかとも聞く。
そのほかにも、いろいろ聞くが、支障があるので書かない。
成長を待つしかないのだろうか。
しかし、どこで、どんなことをきっかけに成長するのか。
もっと別の原因があるのだろうか?
こんな会話だった。
芥川龍之介の杜子春の話を知らない人がいるかもしれないので…。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好
いと思っているのだな」
閻魔大王は森羅殿も崩くずれる程、凄すさまじい声で喚わめきました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌きら
わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆んど声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出
おいで」
それは確かに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん」と一声を叫びました。…………
私の夢に出てきた場面は、上記の様子。台風の衰えた低気圧が通ったのであろう、鬼の鞭のような、雷の酷く打ち続ける夜中に、そんな夢を見たのだな。
少しおかしなたとえですが、ゲーム三昧の不登校の子は、杜子春になれるのだろうか、不登校の子の親は、果たして子のために理不尽な責めに耐えたのだろうか。
こんな厳しいことを書いちゃあ、いけないね。
情報不足で、何とも分からないし、分かったところで、どう判断し、何のアドバイスもできそうにもなく、無責任な思いだけなのですが…。
苦しいことでも頑張って乗り越える経験があれば、不登校にならないわけでも何でもないのだけれど、親は子を叱らず、食事も食べないから作らず与えず、カップラーメンや菓子パンやらという。このつかみどころのない親子の話はもやもやと脳裏に残る。
子は何かに夢中になろうとした時、「トカトントン」の音を聞いてしまうのだろうか?
太宰なら、以下のように書くのだろうか?
気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。
太宰の励ましの言葉も、不登校君には届かないだろう。
もちろん私を、太宰は懼れないだろうなと思います。
何故なら私の幻聴は、単に耳鳴りなのですから。
最近は、眩暈を伴うようになり、めっきり白髪が増えました。
茶化しちゃあ、いけねえ。
2年前に、友人の相談やら、テレビ番組やら、夜半の雷に体がゆられて、私は、「杜子春」の夢を見た。そして、2年後、友人から、不登校君が相変わらずであることを聞いたので、この文章を書いたことを思い出した。
豊かな?国の不登校君は、いいねえ。いつまでも不登校君で居られるのなら、いればよい。いられなくなった時、多分それは、不登校君の自身への評価、「おれ、まずいんじゃない?」ということだろうけれど、その時に、適切なメソッドが周囲に有ればよいけれど、そんな安らかな明日が、この日本にあるのだろうか?
自由民主党(だって!悪い冗談のような名前)に投票するアホがいる限り、そんな安泰は決してないと思うな。
ああ、なんて余韻のない終止。