長門銭広永様は難しい銭

もう当たり前だが、自民党は国民を幸せなど全く気にしていない。

朴沙羅著「家の歴史を書く」(2018筑摩書房)を読んで思ったこと。

著者が、親戚の叔父さん叔母さんの生活にインタビューする中で、自分の才能や努力だと思っていたものがそうではなくて、親よりもっと上の代から受け継がれた資本の贈与であることに気が付く。男であるとか、(著者は勿論、女性です)都市圏に住んでいるとか、日本に生まれているとか、健常者であるとか、そういった様々な理由によって無数の下駄を履いて楽々世の中を歩んでいること、自分が自分の力でできていることはほとんどないと気がついたという。


具体的には、261ぺの「鉛筆で食うてる家族」から転記。
著者の祖母は、俊子叔母さんから持って行ったお金の一部は、確実に私の父の養育費や学費になっていたはずだ。そして私の父は兄弟姉妹の中でただ一人、大学に進学して中学校の教員になった。
引用ではありませんが、この俊子叔母さんは、自分の給金を母が持っていくことは当然のことで、自分の楽しみが僅かにしか残されないことを仕方のないことと受け入れている。また、親戚は、朴沙羅さんを姜尚中であるかのように喜んでおり、先を見通した祖母による富の再配分は正しいものだったと思っている。
ほとんど自分の力ではないという気付きは『ヘルシンキ生活の練習』の中でも、書かれていたような記憶があります。もう図書館に返してしまったので、確かめることはできませんが…。


内田樹氏やその親友の平川克美氏も、この世に生まれ落ちた瞬間、私たちは、無数の贈与を受け取っており、それは負債でもある。生きることは、その負債を返済することであると書いていた。
そういった広義の出自は、自分の所為ではなく、誰のせいでもない。だから、個人には、等しく返済の義務があり、権利が付与される。そして、死ぬことによって返済がどんな形であれ、終わる。


誰かさんは、「日本に生まれた人は、もう等しく宝くじで3億円当たっているのだ」と、その後は生きて、その贈与や負債を返済し続ける。すると、恵まれた(広義の)出自を持ち合わせた人は、贈与も大きく、返済も大きいのだな。返済額は他人が決めるものではなく、自分で決めて、死ぬまでそれを返済し続ける。


本が近くにないという事は、この確認作業をしながら、思考し続けることが一時的に絶たれることで、これはやはりダメなことですね。