長門銭広永様は難しい銭

もう当たり前だが、自民党は国民を幸せなど全く気にしていない。

生まれた時から贈与され続けている

内田樹氏も平川克美氏もこの数年の一時期、贈与について書かれていた。

古くは、ストロースの文章も引いていた。

内田氏は、ユーミンの「やさしさに包まれたなら・・・」の歌詞に、

両親からの贈与、自然からの贈与、そして、すべての事に贈与を感じる

というようなことを書いていた。

小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ

 

小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今

雨あがりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ

 

最近になっては、

『家(ちべ)の歴史を書く』(朴 沙羅著)

の中で、祖母の行った富の再分配の結果、私の父は教員となり、私は私の基盤を頂いた

ということ、

親族の(彼らは意識していないかもしれない過去だけでなく、現在の)応援

についても書いている。

また、その後の著書『ヘルシンキ 生活の練習』についてのインタビューでも、

朴「前の職場の同僚でレイシズムカルチュラル・スタディーズの研究をされている小笠原博毅先生(神戸大学)が、『社会学の良いところの一つに、自分のせいにしないことがある』とおっしゃっていたように記憶しています。もうちょっと広い言い方で、『周りのせいにする』だったかもしれないですけど、私はそれを聞いた時にとても納得したんです。ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』でも、自分の才能や努力だと思っていたものがそうではなくて、親なりもっと上の代から受け継がれた資本であることが指摘されています。あるいは男であるとか都市圏に住んでいるとか、健常者であるとか、そういった様々な理由によって無数の下駄を履いて楽々世の中を歩んでいることについても、研究があります。そのように、ある意味で自分が自分の力でできていることはほとんどないと気がつくというのは社会学の大きな魅力の一つだと思いますし、社会学を勉強してきたものとして、その視点は常にあります。

と言っているから、もちろん贈与の視点を持っている。

広げれば、宇沢弘文氏の言う「社会的共通資本」につながり、そういった物に外国資本の参入を許している日本のお粗末さには閉口する。

 

例えば、多くの宗教は、贈与について教える。それは神からの贈与だろう。

そして神の贈与は、神を信じる人々に行き渡り、そして人々は、神からの贈与をさらに人々へと贈与していくのだろうか?

子供の頃から贈与を知り、無償の贈与の連鎖が起これば素晴らしいだろう。

しかし、「神からの贈り物です」と伝わっていては、その利は害をこえることはないだろうなあ、と想像する。

子供向けの物語では、そういった嘘は、すぐにばれて、しっぺ返しを食らう結末となっている。