長門銭広永様は難しい銭

もう当たり前だが、自民党は国民を幸せなど全く気にしていない。

黄山瀬

「きやませ」 と読むのか、「きやまぜ」 と濁って読むのか、未だに迷っている。
正しくは「きやませ」なのだろうが、私がその小説に出会ってから、世の中で初めて聴いた「黄山瀬」は「きやまぜ」と濁っていたのだ。
社内研修会の講師が濁って発音したのだ。
その方が「きやまぜ」と言われたとしたら、それが正しいのだと思いたいほどに、うれしかったのだなあ。
もう33年前の事だから、本当に「濁っていたのか」と強く言われると、困るのだが…。
その方の発音を覚えているのではなく、「ぜ」と濁ったと思ったことを覚えているのだから…。

黄山瀬』を書いた田宮虎彦という作家が亡くなってから、30年近くになる。
脳梗塞を発症し、不自由になるのを潔しとせず、世話をする人の隙を衝いて、ビルから跳んだのだ。
経緯を知った時、残念でなりませんでしたが、私の色々なことがそれなりに片付いてきた頃には、
「先生、やりましたね」
と思うようになっていた。

作品と作家自身の関係は、太宰治のようなギャップがあるのだろうけれど、虎彦の場合はどうだったのだろう。
遺された子供たちからは、ひどい思われかたをされているので、やはりそうなんだろうなあ、と昔出したそれなりの結論を今も覚えている。そういう事も、今ではどちらでも構わないと思うようになった。それは特段珍しいことではないのだから。

少し前に、きれいな女性の作家が直木賞になって、何冊か古本で読んだ時期があった。
北国の幾人かの女性の人生を描く小説は、ちょうど虎彦の書いた女性と重なり、私はその悲恋を懐かしく読んだ。
主人公が私の頭の中で、命を得たように生き始める快感を久しぶりに覚えたのですね。
虎彦の女性(人)は、戦争にその人生を蹂躙される、市井の庶民で、作品から「こんなことがあってはならない、こんな人生を送らせてはいけない」という作者のエールを読み取っていた。

作家と作品の関係は、太宰治のように、それすらも逆手に取るような演出家もいたり、三島由紀夫のような作家ばかりでは、疲れ果ててしまうのですが、虎彦を酷評した江藤淳自死してしまった時は、そんなに言わなくても良かったのになあ、とポカリと思った。

今は、作家の周辺を伝える場が豊富で、その女性の作家は、元気のいい、おばちゃんを演じていらっしゃるようだ。新作は、古書価も高く、アマゾンで100円を切ると、1円まで下がるので、サヤすべり取りをしながら待っている。いいえ、虎彦も描いていたけれど、隷属的従属の愚かな日本国民の行く末の方が、心配で仕方がないのです。生意気だなあ。陳腐ですが、事実は小説より奇なり、ということです。