長門銭広永様は難しい銭

もう当たり前だが、自民党は国民を幸せなど全く気にしていない。

懐かしいが、もやもやした夢を見た

私の実家は、大正末からの文具店であったが、届け出の不要な食品も扱っていた。小学生の頃、古くなった在庫を家族で整頓して、かなりの量を捨てた。それらは、昭和初期からの代物で、例えば、「武運長久」と刻まれた鉛筆だったり、ネズミの被害に遭った紙類や色褪せたノートだったりした。ベートーベンの描かれた小さめの5線譜ノートが10円とか印刷されているのを店に来た高校生が見つけると、珍しがって買っていった。菓子パンが30円ぐらいの時代の出来事だ。他にもとにかくいろいろあったのだが、多くを覚えていない。例えば昆虫採集セットや天体望遠鏡レンズセットといった物だ。青板ガラスの粗末な材料で作られた対物レンズ(でも、指を切らないように小口は面取りされていた)が1~2枚まだどこかにしまってあるはずだ。接眼レンズ用の小指の爪ほどの豆のようなレンズと一緒に。30年以上溜め込んだ部屋の中のどこかに埋もれている。そんなつまらない物でも、私にとっては、大事な思い出の品だ。武運長久鉛筆がひとケースでも手元にあったらなあ、と時々思う。鉛筆の塗装はカサカサになって剝がれかけていた。戦時中の鉛筆の芯は、油っ気がなくなり、削って書いても、濃く書けないので、駄目だねという事になったと思う。2Hか3Hぐらいの硬さになっていたと思う。だから、鉛筆を舐め舐め書いている役者の映像は、本当にそうだったのだな。

私が30の頃、亡くなった母親は美しかったので、もう、売れ筋の変わってしまった裁縫関係の業者が、大して注文もないのによく店に来ていた。パーカーやプラチナ、パイロットの万年筆など、ガラスのケースに並べられていたが、時々、代書屋さんと家族で読んでいた50過ぎの男の人が万年筆を見ていたのを覚えている。92万人と呼んでいた農家の男は、やはり美人の私の姉に会いに店によく通ってきて、気持ち悪がられていた。92万人というのは、昭和50年頃の独身男性の総数である。だから、しばしばアジアの国のお嫁さんをもらって、という表現はよくないのだろうが、暮らしている人をお祭りの賑わいの中に見た。

母の実家は、隣の市町で、小学生の頃、空襲に遭い、隣町に避難し、少なくとも中学校を卒業するまでは住んでいた。だから、その辺りに住む友達が点在して住んでおり、お祭りで母親と歩いていると、何人かの友人と会ったりした。お社の脇の商店で偶然、中学時代の友人に出会った母の友達は、鉄砲のおもちゃを私に渡そうとしたが、悪いからと言って、花火にすり替わってしまったことがあった。あのブリキの鉄砲、欲しかったなあ。引き金を引くと、弾み車が回り、摩擦で煙が出て火花が散るようなものだったか、コルク玉が本と言って飛び出すものだったか、記憶にない。

夫婦喧嘩をしたのだろうか。お店の暇な日曜の昼過ぎに、母と私と姉と3人でバスに乗って隣の市の母の実家に行くことが度々あった。駅からは、市内循環というバスに乗って、小畷(こなわて)というバス停で降り、しばらく歩いた。(近くに「〇井コイン」の店舗があるのを中学生の頃知った。)夜になると、父親が車でやってきて、帰っていくという段取りだ。祖母は喜んで迎えてくれた。大きな茶筒のような金属でできた容器にお菓子がいっぱい入っていて、それを開けて食べるのが楽しみだった。きっと週末になると、祖母が入れておいてくれたのだろう。天井からぶら下がっている方錐形の取っ手の付いた紐を引くと水の流れる水洗トイレも面白かった。家のトイレは、汲み取り式で怖かったし、実際一度踏み外して危うく落ちそうになったことがある。一度きれいなバスガイドさんがおトイレを借りにお店に来て、祖母が案内していたけれど、汚くて申し訳ないなあと、子供心に思ったことがある。

私の見た夢は、始めに書いた昭和40年中頃の商品と呼べなくなった代物を捨てる記憶である。子供ながら疲れた記憶があるが、その時の雰囲気は、決して明るいものではなかった。「まあ、仕方ないね。売れないよね」と言いながら、「えい、えい」と決心しながら処分していく悔しさを子供心にも感じた、その感じを思い出した夢を見たのだ。もう半世紀も前の事だ。でも、似たような悔しさは時々感じて、その時もきっとうっすらと思い出していたのだろう。

 

しばらく積んでおいた「火花」を最近読めるようになって、どうしても書かなければならなかった、書きたかった思いが伝わってきて、心が静かに興奮したのだ(ろう)。